壺屋焼
about tsuboya-yaki

壺屋焼

about tsuboya-yaki

やちむんの歴史

やちむんの歴史は長く、琉球王朝が海外と盛んに交易をしていた14世紀から16世紀のころ中国や南方諸国の陶磁器が輸入され、南蛮焼の技術が伝えられ、600年もの長い歴史があると言われています。 そのためこの時代は、輸入ものの陶器が主流で、実は陶器はあまり生産されていなかったようです。

壺屋焼のはじまり

江戸初期の1609年に薩摩の島津藩が琉球に侵攻、薩摩に占領されるとともに交易でも様々な制約を受け、生活必需品を独自でつくらなければいけなくなり、17世紀。琉球王朝の尚貞王(しょうていおう)が産業振興目的で、1682年各地に分散していた3つの窯場(現在の那覇市泉崎・首里・沖縄市に位置する)『湧田・宝口・知花』を那覇市の牧志の南に統合し、その土地を『壺屋』と呼び、そこで作られるやちむんのことを『壺屋焼』といいました。これが壺屋焼の歴史の始まりです。

統合の背景

これまでは中国からの貿易で、たくさんの磁器が輸入されていたため、自国での生産をそれほど必要としていませんでしたが、中国国内の情勢の悪化と、薩摩に支配下となり、これまでのように陶器が入りにくくなり、自国生産を余儀なくされからと考えられます。

壺屋が選ばれた理由

1、良質な粘土が採れる
2、水場がある
3、薪を運ぶ港に近い
4、登り窯に適した丘陵地(きゅうりょうち)がある
5、首里に近からず遠からず、火事になっても被害は及ばず、しかし目が届きやすいため

特徴

壺屋焼は主に、荒焼(あらやち)と上焼(じょうやち)の二つに分けられます。

荒焼/あらやち

土:沖縄本島 南部の土、クチャとジャーガル配合
温度:約1120℃
特徴:泥釉、マンガン釉をかける
水甕、味噌甕、酒甕など主に貯蓄を目的にした大型~小型
特徴:最盛期は明治で泡盛の保存用甕として需要が高まった
戦前までは陶工の7~8割が荒焼だったと言われる
その後水道の普及など生活様式の変化で需要がなくなり現在はほとんど生産されなくなった。

上焼/じょうやち

土:沖縄本島 北部の土、メーガニク、兼箇段、石川など配合
温度:約1230℃
特徴:釉薬をかける。碗や鉢、皿、急須など日用の器など様々な形の製品がある
特徴:戦前までは荒焼の方が盛んだったが、民藝運動の柳宗悦らによって評価された事もあり県外からも注目を浴びる。
戦後は米兵の土産物需要その後はやちむんブームの流れから需要は多く現在はほぼ上焼が生産されている。

朝鮮人陶工が伝えたこと

江戸時代初期
1616年薩摩より一六、一官、三官という3人の朝鮮人陶工を招き彼らから技術を学びました。
諸説いろいろありますが、現在では次の3つの技術がもたらされたとされています。
1、登り窯を築き、高い温度で焼く技術
2、無釉で大型の壺や甕を作る技術
3、黒釉を使う技術(コールタールのようなべっとりした感触のもの)

琉球処分後の壺屋

明治初期
そして1872年(明治初期)琉球処分が始まり、琉球王国は琉球藩となりました。
本土では廃藩置県と同時に"藩おかかえ"だった多くの窯の火が消えていきました。
一方壺屋は、完全な官用窯でなかったことが幸いし、王府以外で"自分たちで売る"という仕組みができていたため、なんとかこの窮地を脱することができました。

琉球古典焼と民藝運動

大正~昭和初期
しかし本土からの安価で昭和の始まりとともにやってきた世界恐慌のあおりを受けて、上焼は特に破滅的な影響を受け、廃業する陶工、荒焼に転向する陶工も出てきた。そんな中生まれたのが【琉球古典焼】と呼ばれるエキゾチックな異国模様が流行していた本土向けにデザインされたもので、掻き落としのような新しいデザインが導入され、多く本土へと渡っていきました。またこの頃、柳宗悦らをはじめ日本民藝協会のメンバーが何度も壺屋を訪れ、調査や製作を行い、東京へ戻ると民藝運動の中で壺屋を"琉球の富"とし繰り返し紹介し、高い評価を受けた陶工たちは自信と誇りを取り戻したと言われています。

戦争・戦後の壺屋

戦中戦後
太平洋戦争が終盤となった1945年3月米軍が沖縄本島上陸。約3ヶ月に渡って繰り広げられた悲惨な沖縄戦は約20万人の戦死者を出し、その半数近くが県出身者の民間人でした。そんな戦争の中陶工たちは、日本軍の命令を受け、兵隊茶碗や蓄電用のバッテリーケース、電線架設用の碍子(がいし)などを大量に作らされました。この沖縄戦で那覇のまちは首里城を含めて9割が全焼しましたが、壺屋は空襲を免れ、ほとんど被害はありませんでした。そして8月の終戦から3ヶ月後の11月、食器生産の再開のため沖縄各地に散らばっていた陶工達100人余りが集まり、先駆けて壺屋に戻りました。陶工たちは家を修復しながら器を作り、無償で住民に配りました。また、空襲被害の少なかった壺屋を中心に、市役所、警察署、配給所がつくられ、さらに復興とともに映画館、劇場や公設市場などができました。
まさに壺屋は戦後復興のスタート地点となり、人々は壺屋焼の器に命の糧を盛ったのでした。

本土復帰

昭和40年代/1970年代
1972年、沖縄は本土復帰を果たす。海洋博博覧会の開催とともに、沖縄ブームが到来。民藝ブームの後押しもあり本土からの観光客が壺屋焼を買い求め、壺屋焼への需要が激増。しかしこの頃、壺屋周辺は戦後の復興とともに栄えたこともあり、住宅密集地域となっていた。その事が、皮肉にも"登り窯=公害"との声が増え、登り窯反対運動が激しくなっていきます。そしてついに、1974年那覇市が登り窯使用禁止勧告を出し、この時から事実上壺屋では登り窯が使用できなくなりました。
またその頃読谷村が"やちむんの里"を設置したことで、壺屋を代表する1985年に認定された人間国宝の"金城次郎"氏をはじめ、登り窯にこだわりを持った陶工たちは移っていくことになりました。
こうして現在では、壺屋という地域にこだわって残った陶工たちと、登り窯にこだわって移っていった陶工たちがおり、壺屋という地域以外でも壺屋焼がつくられています。1975年には"壺屋陶器事業協同組合"が設立され、翌年1976年には壺屋焼は通産大臣より"伝統的工芸品産業"に指定されます。いわいる国指定の伝統工芸品です。さらに翌年の1976年には"壺屋陶器会館"ができ、この頃から組合という組織としての活動が活発化し、1982年には組合が製土工場をつくり、現在県内の主な土の取り扱いは組合が行っている形となっています。

今の壺屋焼

平成 現在
現在壺屋焼の組合員として登録されている窯元は28件となっています。また現在県内には162件(H26調べ)の陶器製造事業者がいます。近年ではライフスタイル提案の店舗が増えた事と、民藝ブーム、日本のものづくりブームの影響もあり県内の工房は注文に比較的安定して注文があるという状況にあります。ただ現状は、沖縄で作られている沖縄らしい焼物=やちむんというイメージが先行し、"壺屋焼"という言葉はいつしかあまり聞かなくなりましたが、現在もこの壺屋の地域で製造する窯元も十数件残り、先祖代々続くこの土地に根付き、これまでの先人の知恵を受け継ぎながらも、時代に必要とされるやきものを作り続けています。その景色は時代が変わっても、作り続けていく窯元たちがいる限りはこれからも続いていくのです。

PAGE TOP